シートから伝わるエンジンの振動が、体全体を小刻みにゆする。
フロントガラスからの日差しの暖かさもあいまって、次第にクロノの意識は眠りの世界へと誘われていく。
左肩からかけられるシートベルトは、クロノの意識をつなぎとめる役割をしてくれなかった。

「……ん」

そのシートベルトの締め付ける力が強くなる。いや、正確に言うと車が減速したため、クロノの体が前方へ押し出されたのをベルトが受け止めたのだった。
クロノの右の手元近く。シフトレバーを操作する手が伸びる。
三速からニュートラルへ、車が完全に停止した直後、今度は二速へとギアをチェンジした。
二の腕までシャツをまくった袖から、太く筋肉質な力強い腕が見える。

「疲れているのかな。時空……管理局、だったっけ? 仕事は忙しいのかい?」

話しかけられ、クロノの思考がにわかに覚醒する。
隣で車を運転している人間がいるにもかかわらず、うたた寝をしてしまったことを恥じながら、クロノは謝罪した。

「め、面目ありません」

そう謝られたドライバーは、クロノの言葉の意味を取り違えたのか、破顔しとりなすように言葉をかけた。

「いや、あれは仕方ないだろう。たまたま俺が通りかかったんだ。それを幸運だと思ってくれていいよ」
「はい。……士郎さん」

クロノと士郎、二人はそう頷き会って後部座席を見る。
そこには、真っ黒な車体の自転車が、座席を倒したことによってできたスペースに横たえられていた。




クロノの行く道−寄道編−





前方の信号が青に変わり、士郎はハンドルを切りながら話しかけた。

「それで、どうなんだい?」
「え? えっと……すいません。何の話でしたでしょうか?」

自分がうつらうつらしている間に、何か話をしていただろうか。
問いかけられたクロノは、必死に記憶を手繰り寄せる。

「ああ、悪い悪い。君の仕事のことだよ。忙しいのかい?」

士郎は寝ているところ起こしてしまったことを謝る。そして、その上で再度質問を繰り返した。

「そうですね。他の部署と比べると、突発的な出来事に対処する必要があります。そのため、休みも不定期になりがちですので、きついと言えばきついですね。もっとも、慢性的な人手不足が一番の悩みの種なんですが……」
「だから、なのはをスカウトしたと?」

士郎の口調の陰に何か鋭いものを感じたクロノは、瞬時に士郎の心情を理解した。
自分の娘を心配しない父親などいるはずがない。
自分の手の届かない「異世界」に、危険の伴う仕事をしに行くのだ。まして、その娘が小学生ならなおさらである。
クロノにしてみれば、自分から強く勧めて管理局の仕事をさせたわけではなかった。しかし、先の世界を揺るがしかねない大きな二つの事件に、なのはの力を借りたのは事実であった。そして、その力を頼もしく思い、信頼していたことも事実であった。
このことから、クロノは士郎に対して申し訳ないと思う気持ちが大きくなっていた。
そんなクロノの想いを知ってか知らずか、士郎は一転軽い口調でぼやき始める。

「ま、これはクロノ君が責任を感じることじゃない。きっかけはどうあれ、なのはは一度これと決めたら、必ずやりぬく子だからね」
「なのはのことを、信じてらっしゃるんですね」
「子供のことを信じない親はいないよ……」

会話が途切れ、車が停止する。
士郎は目前の信号が赤であることを確認すると、首をひねって後部座席を見た。

「しかし、ついてないな。パンクかい?」
「ええ。日ごろの無理な運転がたたったようです」
「……見るからに新車のようだけど、一体どんな荒っぽい運転をしたんだ……」
「え、ええ……ちょっと」

クロノの自転車にまつわる思い出には、あまりろくな物がなかったので、思わず言葉を濁した。
再び車が前進を始める。
士郎が車の運転に集中するわずかな会話の切れ目に、気が緩んだのかクロノは一つあくびをしてしまった。

「やっぱり、疲れているようだね。少し眠っててもいいよ」
「すいません。では、お言葉に甘えて……」

エンジンの振動と、太陽の日差し、そして士郎の発するどこか心の落ち着く不思議な雰囲気がクロノを眠りへといざなっていった。












「クロノ君。着いたよ」

士郎の呼びかけによって、クロノは目を覚ました。
よほど疲れていたのか、クロノは途中寝返りを打つこともなく昏々と眠り続けていた。
寝ぼけ眼をこすり、いまだ睡眠を欲する頭を無理に起こそうとする。
完全に覚醒する前の、まどろんだ頭がゆっくりと働き出す。
クロノは懐かしい夢を見ていたような気がした。とても幼い頃の、暖かな夢だった。

「さてと、こいつを降ろすとするかな」

バックドアを持ち上げ、自転車を降ろし始める士郎。
その様子に気がつき、クロノは手伝うために急いで車を降りた。
自転車のタイヤがパンクをして、立ち往生をしていてところを士郎の車に拾ってもらっていた。
自分と自転車を運んでもらえただけでもありがたいのに、士郎一人を働かせてしまっていては申し訳がない。
しかし、車を降りたクロノは、今現在自分のいる位置が正確に把握できなかった。
目の前に立派な構えの門があった。
木の引き戸に、塀と同じ瓦で葺いた屋根までついている。
そして、自転車を押してきた士郎が自然な動作で戸を開いた。

「ただいまー」

その帰宅の挨拶で、クロノははっとした。
一歩退いて、門の脇にある表札を確認する。

『高町』

「ほら、クロノ君。入った入った」
「あ、はい! って、え、あれ?」

士郎に促され反射的に返事をしたクロノだったが、事態が飲み込めずにいた。
てっきり、ハラオウン家が居を構えるマンション。もしくは、自転車が修理できるサイクルショップで降ろしてもらえるものと思っていた。
しかし、現状はどうだ?
あれよあれよという間に、クロノはいつの間にか高町家の客人となっていた。












縁側に通されたクロノは、車をしまってくると言い残した士郎を待つことになった。
いつまでも突っ立っていても仕方がないので、縁側に腰掛ける。
ぼんやりと庭を眺めるクロノの視界に、いやでも飛び込んでくるのは離れの道場。そして、その脇にある池だった。
池には縁側から飛び石が続いている。
日本人である高町家の面々には当たり前の景色ではあるが、異世界人のクロノにとっては異国情緒しか感じられない。
だが、それでも不思議と心が落ち着くのをクロノは実感していた。
とはいえ、完全に落ち着くことはできない。なぜならクロノの脇には、後輪がその自重によって押しつぶされてしまっている黒い自転車があったからだ。
完全に、パンクしていた。
少々無茶をしすぎたかもしれない。
こちらの世界で買って、まだ間もない自分の愛車を見ているうちにクロノはそんなことを考え始めた。

「おや、珍しいお客さんだな。いらっしゃい、クロノ君」

背後から急に呼びかけられ、クロノは少し驚いた。
振り向くと、そこにはこの家の長男、恭也がいた。
幼少の頃に受けた双子の猫の使い魔による特訓、仕官学校時代の授業、時空管理局局員としてのさまざまな戦闘訓練。それらの今まで積み重ねてきた苦労の数々が、自信とともに揺らぐ。
クロノ自身、腕に覚えがあるつもりだった。しかし、その自分が民間人である恭也の接近にまったく気がつかなかったのだ。
表面は、急に呼びかけられたことによる「驚き」の表情をしてみせているが、その内面は数倍の驚愕と動揺が占めていた。
単に疲れていて、気を抜きすぎてしまったのだろう。先程の車の中でもそうだったように。そう、無理矢理自分に言い聞かせ、クロノは立ち上がって返事をした。

「おじゃましています。恭也さん」
「ああ。……なのはなら、まだ学校から戻っていないが……」

クロノが高町家を訪れる理由を「なのは」だと考えたのだろう。恭也はなのはの不在をクロノに告げた。

「ああ……いえ、その今日は――」
「おまたせ、クロノ君」

玄関から回ってきたのだろう。庭に面した家屋の影から士郎が姿を現した。
手には水を張ったバケツ。もう片方の手にはペンキのはげかけた赤い工具箱、脇に空気入れのポンプを抱えている。

「なんだ。クロノ君は父さんのお客だったのか」
「おお、恭也。どうした、出かけるのか?」
「ああ、母さんに頼まれて店まで忘れ物を届けに」

目の前で交わさせる親子の会話に聞き入るクロノだったが、それよりも興味を惹かれるものがあった。それは、士郎が持ってきたものである。
ポンプは、自転車の処置に必要だろう。工具箱を持っているということは、もしやパンクの修理をしてくれるのかもしれない。しかしそうすると、水の入ったバケツは何なのだろう。

「さて、はじめるとするか」

張り切った様子の士郎が、手に持っていた荷物を地面に置きながらクロノに話しかける。
恭也の姿はすでになく、先程の会話の通り出かけていったようだった。

「あの……もしかして、パンクの修理ですか?」
「もしかしなくても、パンクの修理だ」

士郎は嬉しそうに言う。

「そんな、悪いですよ。パンクの修理なら――」
「いいからいいから。……しかし、久しぶりだな。パンクの修理なんて……。昔は、恭也や美由希の自転車をよく直していたものだよ」

工具箱からドライバーセットを取り出した士郎は、その中のドライバーを二本取り出し、器用に自転車のタイヤからチューブを抜き出し始める。
そんな士郎の様子が何故か嬉しそうに見えたので、クロノはせっかくの好意に甘えることにした。

「……ちなみに、恭也さんと美由希さんの自転車の修理ですか?」
「んー、そうだな。正確に言えば、恭也と美由希の自転車『だけ』の修理だな」

取り外したチューブに、空気を入れ始める士郎。ある程度チューブが膨らんだところで、今度はバケツを取り出す。

「『だけ』ですか……」
「なのはは……運動神経がなあ……」

遠い目であさっての方向を見やる士郎に、クロノはそれ以上の詮索をしなかった。
二つのロストロギア事件を解決し、鳴り物入りで時空管理局に入局を果たした在野の魔導師の正体が、運動神経が壊滅的状況の少女であると言う事実を、クロノは自分の胸のうちに秘めておくことを決意した。
本人と、その家族の名誉のために。

「そういえば、クロノ君はタイヤのパンクの修理って、やったことあるの?」
「あ、いえ……。お恥ずかしながら、やり方がわかりません……」

士郎はタイヤのチューブの一箇所をバケツの水に浸し、水中でチューブをしごく動作をする。
しばらくチューブの様子を観察した後、チューブをスライドさせ、まだ水に浸っていない部分を水につけ、同じ作業を繰り返す。

「それは、何をやっているんですか?」

クロノは不思議に思い問いかけた。
士郎が修理の道具を持ってきたときに、一番不可解だったのがバケツの水だったからだ。

「ああ。これはね、チューブのどこに穴が開いているのか調べているのさ。穴が開いていれば、そこから空気が漏れ出すからね。……お、あったぞ」

チューブを水から引き上げ、ズボンにはさんで腰からさげていたタオルでチューブをふき取ると、今度は工具箱から取り出した紙ヤスリで穴が開いていると思われる箇所を磨き始める。
クロノは士郎の作業に見入っていた。そして、修理の手順を忘れまいとして、その一つ一つの動作を頭に叩き込み始めた。

「表面を滑らかにして、後は穴をふさぐだけだな」

ゴムのパッチを接着剤で貼り付け、チューブを取り外した自転車に戻し始める。
その士郎の一連の作業を、クロノは黙々と観察していた。

「さて、空気も入れ終わったし、多分これで大丈夫なはずだ。ためしに、一回りしてくるといい」
「あ、はい。……ありがとう、ございます……」
「うん」

タイヤに空気が入り、先程までのくたびれた様子がなくなった自分の愛車を受け取ったクロノは、早速またがる。
そして、高町家の門を出て、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。












高町家を基点に、直ったばかりの自転車でしばらく一回りしたクロノは、その修理の出来と士郎の腕の確かさを噛み締めていた。
士郎と、娘の同僚であるクロノとは、実のところさして親しいわけではない。
士郎の娘であるなのはを、危険の付きまとう仕事へといざなった責任の一端を担っていると自負していたことから、クロノは自分が士郎によく思われていないものだと勝手に思っていた。
しかし、蓋を開けてみればどうだろう。
タイヤのパンクした自転車を車に乗せて運んでくれたばかりか、自ら修理をしてくれた。
クロノは士郎の行動を不思議に思いつつも、彼の直した自転車にまたがったときにじわりと心の奥底から湧き出した、暖かなものを感じていた。
自転車を降りたクロノは、高町家の門をくぐり先ほど自転車の修理をした庭へと顔を出す。
そこにはすでに士郎の姿はなく、修理に用いた道具がそのまま置かれていた。
おそらく、家の中にいるのだろう。
自転車の具合を報告するため、クロノは縁側から部屋へと上がった。

「いらっしゃい、クロノ君」

クロノが靴を脱いで家に上がるや否や、急に呼びかける声があった。
振り向くと、そこには桃子がいた。士郎の妻で、なのはの母親である。
面識はあるので名前と顔が一致するが、クロノは一つ引っ掛かりを覚えた。
先程、士郎と恭也との会話を思い出す。
それによれば、恭也は母である桃子に忘れ物を届けるため、出かけていったはずである。
しかし、何故その桃子がここにいるのだろうか。

「あれ? 桃子。戻ってたのか?」

そんなクロノの気持ちを代弁するかのように、桃子とは反対側の廊下から士郎が問いかけながら歩いてきた。

「ええ、クロノ君が来てるって聞いて、急いで戻ってきちゃった」
「お店は?」
「今日はもうおしまい。っていうわけにもいかないから、若い子達に任せてきちゃった」

少女らしさを残す若々しい仕草で話す桃子だが、クロノはその桃子の会話を聞いて再び疑問に思う。
どうやら桃子は、自分に用事があるようだ。そのため、経営する喫茶店を抜け出してきたと言っている。

「ねえ、クロノ君。ちょっと桃子さんのお願い聞いてくれるかしら?」
「は、はい……」

正直、あまり良い予感はしなかった。
しかし、自転車を修理してもらった士郎の手前、その妻である桃子の申し出を無碍にすることもできない。
仕方なしに、クロノは桃子の後をついて行った。












「すごくいいわー。似合ってるわよー」

高町家の一室。部屋の中には数々の服が、乱雑にあるいは折りたたまれいたるところにあった。
そんな中、歓喜の声を上げるのは、妙にはしゃいだ様子の桃子。
対して、その相手を務めていたのは、この家を訪れる際に着ていた服装の全てを様変わりさせたクロノであった。
クロノは桃子にされるがまま、そのリクエストに従うまま、己の望まぬままに着せ替え人形と化していた。
クロノの正面で立ちひざの状態の桃子の足元には、「きょうや」と書かれた衣装用収納ボックスがあり、現在のクロノの装いはこの箱の中の衣装によるものだった。

「ほら、うちって恭也以外、みんな女の子でしょ? だから、誰か『おさがり』をもらってくれる子を探してたのよ」
「は、はあ。そうだったんですか……」

クロノは、その桃子の説明を聞いて多少納得した。しかし、そういった説明ならば、一番最初にして欲しかったとも思う。
かれこれ着替えを始めて六回目。箱の中には、クロノの試着をてぐすね引いて待っている衣装がまだ数多く眠っている。しかし、何を思ってか、桃子のそばに「きょうや」ボックスの陰に隠れて「みゆき」と書かれた同じ形の収納ボックスがあるのをクロノは知らなかった。

「おーい。そろそろ一休みにしないか?」

士郎がそう言って部屋に入ってくる。
クロノとしては精神的疲労が限界に達しており、まさに天の助けといったところだった。
士郎の片手には人数分のカップとシュガーポットなどを乗せたトレーがあり、さらにもう片方にはコーヒーの入ったデカンタを持っている。

「おお、クロノ君。似合っているじゃないか。ちょうど、恭也が今のなのはと同じくらいの頃の服かな?」
「そうね、ちょうど小学校四年生くらいかしら?」
「……小学校、ですか……」

床に座り込み、カップにコーヒーを注ぎながら昔を懐かしむ高町夫妻を前に、えもいわれぬ敗北感を味わうクロノ・ハラオウン君(15)。
喫茶翠屋そのままの味を保ったコーヒーを味わいながらも、どうにも抑えきれぬ負の感情がクロノの体全体から染み出す。
だが、そんなことをものともしない万年バカップル夫婦は、自分たちだけ一昔前にタイムスリップをしうれしはずかし昔話に花を咲かせていた。
目の前で醸し出される甘ったるい空気に対抗すべく、コーヒーをブラックで味わっているクロノの姿に桃子がぼんやりと感想を口にした。

「けどこうして見ると普通に日本人と変わりないわよね。別の世界の子だなんて信じられないわ。まるで、もう一人子供が増えたみたい」

うっとりとする桃子に、ここぞとばかりに同意する士郎。

「そうだな。クロノ君のような礼儀正しい真面目な子なら、うちの子として大歓迎だな」
「……は?」

突然何を言い出すのか。何を考えているのだろうか、この人たちは。
礼儀正しく真面目である点は否定しない。なぜならば、それこそが自分を時空管理局執務官たらしめている部分が大きいからだ。
だが何故、それほどまでに自分という人間にこだわりを持つのだろうか。
礼儀正しくて真面目な人間ならば、それこそ世の中を探せば掃いて捨てるほどいるだろう。
以前までこの家で居候をしていたフェレットもどきも、まあその範疇に入るだろう。あまり認めたくはないが。
夫妻の自分を見る目は、らんらんと輝いている。何故なのだろうか。
一瞬にしてそこまで思考を巡らす。これも状況判断に適した執務官の特性と言えるだろう。
だが、次の士郎の一言でクロノの冷静かつ精妙な思考回路は瞬く間にショートをしてしまった。

「どうだい? クロノ君。車の中で言いそびれてしまったが、うちのなのはなんかいいお嫁さんになると思うのだが――」
「ブフッ!」

カップの中に半分ほど残っていたコーヒーのほとんどを、撒き散らしてしまう。
あまりにも突飛な内容だったため、クロノの頭と体、両方が拒絶反応を起こした。
激しくむせるクロノを介抱するように背中をさする桃子。

「大丈夫? クロノ君」
「コホッ、コホッ。……は、はい。何とか……」

自転車の修理と着せ替え人形。
クロノの印象としては士郎の方が断然良かっただけに、今の一言は相当こたえた。
これならば、まだ桃子の方がまともな人間のように思えてきた。

「もう、急に何を言い出すの? なのははユーノにあげるんだから! ね、クロノ君。うちの美由希なんかどう? オススメよ」

前言撤回。
二人ともダメだ。

「何を言っているんだ桃子。なのはのほうが良い。将来的に同じ職場に勤めることになるしな」
「いーえ、美由希のほうがオススメ。年齢的にも近いし、桃子さんが見るにクロノ君には姐さん女房の方が良いわよ」
「いやいや、将来あちらの世界に住むことになるんだろ? だったら、美由希よりもなのはのほうが――」
「もう。そんなこと言って、美由希が行き遅れになったらどうすつもり?」

目前で繰り広げられる、犬も喰わない、もとい裸足で逃げ出しそうな痴話喧嘩を、クロノはなんともなしにぼーっと眺めていた。
そのほとんどまともに動かない頭で、想像してみる。なのはか美由希、そのどちらかと結婚をした自分の将来を。

――そうだな、自分が提督の地位にまで上り詰めたその時、こちらからプローポーズをしよう。
――子供は三人くらいがいいかな。
――子育ては大変だろうか? まあ、そのあたりは母であるリンディや、義母である桃子の助けを借りるとしよう。
――あとは、自分の仕事の危険性だな。
――生涯現役を考えているが、やがて生まれ来る自分の子供の顔を見たとき、果たしてそんなことが言えるだろうか?
――やはり、子供の健やかな成長を見守るのであれば、危険な仕事からは早々に引退して、喫茶店のマスターにでも収まるのがいいだろうか……。

「はっ!!」

クロノは理解した。
この二人が、なぜここまで自分にこだわるのかを。
喫茶翠屋のマスターとパティシエとしての立場が、クロノを跡継ぎにと考えているのだ。
この場から逃げなくては。
クロノがそう考えた次の瞬間、クロノは身体を拘束された。
両腕を士郎と桃子につかまれる。

「クロノ君。もうこうなったら、君の意見を聞かせてくれたまえ」
「そうね。やっぱり本人の気持ちが大切だものね」

なのはと美由希、この二択しかないのに本人の気持ちもあったものではない。
だが、ヒートアップしたこの夫婦の頭の中には、そんなことは些細な問題であった。

「……え、ええと……」

自分の好みとしては、断然なのはである。
だが、将来絶対に尻に敷かされそうな予感がする。それも、自分の命をすり減らすような敷かされ方でもって。
ならば、美由希さんのほうがいいのではないか?
美由希さんならば、エイミィとも仲が良いし彼女も祝福してくれるだろう。
いやいや、何故そこでエイミィが出てくるんだ?
そもそも自分は――

「うおっほん!!」

絵に描いたような咳払いである。
だが、その大仰な咳払いは部屋の中ではしゃいでいた二人を止めるのに、この上なく効果的であった。

「父さん、母さん。二人ともいい加減にしろって。クロノ君たち本人の気持ちも考えずに……」

この場に割って入りクロノの窮地を救ったのは、出かけていた恭也だった。












「すまなかったね、クロノ君。うちのバカ親がなにやら不条理な迷惑をかけたようで……」
「はい……正直、疲れました……」

普段のクロノであれば、例え嘘でも恭也の言葉を否定していたことだろう。
だが、今の彼の状態ではもはやその余裕もなかった。そして、なぜか恭也には自分の心のうちを素直にさらけ出せるような、そんな気持ちもあった。
二人は今、高町家を飛び出してハラオウン家のマンションに向けて歩いていた。
恭也はクロノをかばうように家から連れ出してくれた。そして、恭也は直りたての自転車を押してくれている。

「けどまあ、あの二人も悪気があってやったわけじゃないと思うんだ。許してやってくれないか?」
「いえ、そんな。別におこっているわけではありませんし……」
「悪いな。俺が自分の将来をおぼろげながら見定め始めたことが、まさかこんな形で余波となって表れるとはな」
「翠屋の跡継ぎのことですか?」
「ああ」

恭也はクロノに自分の抱いている夢を語った。
両親である士郎と桃子は、その恭也の夢に関しては応援してくれているらしい。喫茶店を始めて間もなく、士郎が前の仕事で大怪我をおって入院をしていた際に、幼いながら翠屋の仕事を手伝った恭也の手前、跡継ぎの話題について強いことは言えなかったようだ。

「父さんは口ではああ言っているが、やっぱりなのはなのことが心配なんだ。だから、信用のある人間をなのはの近くに置きたがっている」
「買いかぶりすぎですよ……」
「まあ、そう謙遜するなって。母さんにしてみれば、俺となのはがさっさと将来のことを決めちまったから、美由希しか跡継ぎがいないんだが、その美由希がな……」
「美由希さんが、どうかしたんですか?」

急に言いよどむ恭也に、クロノは不思議そうに振り返る。

「なんというか……。なのはに運動神経がないように、美由希には、こと『食』に関するセンスがまったく無い」

早い話、「味音痴」の「料理下手」らしい。
人は見かけによらないものだ。クロノはそう思いながらも口には出さずに、前を向いたまま歩き続けた。

「だから、早々にもらってくれそうな相手を探すのに躍起になっているようでな……」
「大変なんですね……」

恭也の話を聞いて、クロノは思う。
翠屋の跡継ぎなどは士郎と桃子の押し付けともとれる話だったが、よくよく考えてみれば、それは両親の子供たちに対する愛情がそうさているからに他ならない。
クロノが先程まで感じていた、士郎と桃子に対する印象が徐々に変化しつつあった。複雑に絡み合った糸がゆっくりと確実にほどけていくかのようだった。

「それじゃ、俺はそろそろ戻るとするよ」
「はい。わざわざありがとうございました」
「いいって。……ああ、それと、最後に一つ」

自転車を受け取り、ペダルに足をかけ漕ぎ出そうとしたクロノを恭也が呼び止める。

「さっきは俺も本人の気持ちが、とか言っていたけど、クロノ君の相手は、そのままフェイトちゃんのお姉さんになるって言うことだから、まあ心の片隅に留めておいておいた方が良いな」

恭也はそう言うと、クロノの返事を待たずにきびすを返し、来た道を戻っていった。
一人残されたクロノは、一人つぶやく。

「自分の将来の相手か……」
























「なのはと美由希さん、それとエイミィ。お姉さんにするなら、誰がいい?」
「…………へ?」

後日、神妙な面持ちで、フェイトに対して突拍子の無い質問をするクロノがいた。



この作品を、COTTELの勝巳良併氏に捧げます。

私が、なのはSSを書くきっかけとなったのが、上に挙げた勝巳良併氏の作品であります。
そして、クロノの自転車の設定も、こちらからお借りして書いております。

クロノの自転車のお話が気になった方は、ぜひ氏の作品を読んでみてください。


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