フェイトは「ソレ」の前になすすべなく立ち尽くしていた。
「ソレ」に打ち勝つためには、自分ひとりの力で立ち向かうしかない。
クロノやリンディはもちろん、使い魔であるアルフにも頼れない。
再び「ソレ」を見据える。
いまだフェイトの前にある「ソレ」は、不気味な沈黙を守っていた。
「ソレ」が放つ力強さを持った静寂たる空気。
その空気に気圧されそうになりながらフェイトは思った。まさに「白い悪魔」だと――。




一年の願い





「フェイトぉー。ちっとも進んでないみたいだけど、大丈夫かい?」

ぼうっと突っ立っていたフェイトにベッドに横になったままのアルフが声をかける。
その声に反応してアルフに向けたフェイトのまなざしには、困惑の色が見て取れた。
ハラオウン家が居を構えるマンションの一室。そこに割り当てられたフェイトの部屋で、フェイトは先程から腕を組んだまま立っていた。
フェイトの前には、床一面に広げられた新聞紙とその上に敷かれたフェルト地の厚手の黒い布、そして真っ白な縦長の書道用紙が鎮座していた。

「大丈夫じゃない……。というか、何をどうしたらいいか、分からなくて……」
「冬休みの宿題……だっけ?」
「うん」
「明日から学校が始まるんじゃなかったっけ?」
「……うん」

小学校から冬休みの宿題として課せられたものはいくつかあった。
「闇の書」事件の後処理のどたばたがあったが、それでも時間を見つけて真面目にコツコツとこなしていったフェイトであった。
しかし、「書初め」なる課題については全く未知の物であり、自分なりに調べて道具を揃えてみたはいいが、そこからが分からなかった。
好きな言葉を書いてくること。そう学校で言われたものの、いまいちピンとこなかったのは事実だ。なぜならば、「書初め」というものを知らなかったからだ。
この「書初め」というこの国の風習が、ひいては「国語」という教科が、またしても自分自身をここまで苦しめることになろうとはフェイトも転入当初は思わなかった。
直面している問題がこの国のものであるため、同じ世界であるミッドチルダ出身のクロノたちハラオウン家の人間にも頼りにできない。
フェイトは焦っていた。
提出期限が間近なのである。翌日から始まる学校に持っていかなくてはいけない。

「……どうしよう」
「やり方がわからないんだったら、知ってるやつに聞きに行けばいいじゃない」
「知ってる人?」
「なのはとか」
「なのは!」

どうやらフェイトは今の今まで、この国の出身者である大親友のことをすっかり忘れていたようだった。
なのはの名前を聞いて目の色を変えたフェイトは、部屋に広げていた習字道具一式を瞬く間に片付けて小脇に抱え、コートを羽織って飛び出していった。
さんざん頭を悩ませていた課題に対する糸口が見つかったことによるものか、はたまた大好きな友人に会いに行く口実を見つけたことによるものか、フェイトの表情は喜色満面、とても活き活きとしたものだった。
アルフは思う。
フェイトの場合、なのはに会いに行くことの方が断然嬉しいんだろうけどね。
使い魔と主人。精神的なリンクが無くても、フェイトを知るものならば一目瞭然なことは明白であった。












「お、フェイトちゃん。いらしゃーい」

高町家の玄関。
フェイトを出迎えたのは、なのはの姉、美由希だった。

「おはようございます。美由希さん」
「うん、おはよう。今日はどうしたの? って、聞くまでもないか。『書初め』の宿題?」

美由希はフェイトの持っていた真新しい習字道具箱を見つけると、その来訪目的をズバリ言い当てた。
気恥ずかしさに顔を赤くしゆっくり頷くフェイトを促すように、美由希は話を続けた。

「なのはなら、道場にいるよ。悪いけどそのまま庭から回ってくれる?」
「あ、はい」

言いながら、美由希も玄関を下りてサンダルに足を通した。












「恭ちゃーん! 門下生一名追加だよー!」

フェイトを伴った美由希が、道場の中へ向けて声をかけた。
道場には、美由希の兄恭也と妹なのはがいた。

「フェイトちゃん!」

美由希の声に振り向き、その傍らに立つフェイトの姿を見つけるや否や、なのはは急いで駆け寄ってきた。その後から、恭也も歩いてくる。

「フェイトちゃん、いらっしゃい。今日はどうしたの?」
「うん。実はなのはに、お願いがあって……」

言いながら習字の道具一式の入った道具箱を、胸の高さまで持ち上げるフェイト。
フェイトは用件を最後まで口にすることは無かったが、なのはを始め恭也にも言わんとすることが伝わったようだった。

「書初めの宿題だよね? グッドタイミングなの、フェイトちゃん。わたしもこれから取り掛かるところだったの」
「まあ、一人より二人でやった方がお互い心強いだろう。フェイトちゃん、上がって準備をして」
「は、はい。よろしくお願いします」

どうやらなのはは「書初め」の宿題にこれから取り掛かるようであり、恭也はそのコーチ役を買って出ていたようだった。
道場の中は冬場のしんと張り詰めた空気が充満しており、精神を集中させるのに適していた。
適度な肌寒さも、心を落ち着けるの一役買っている。
フェイトはなのはの左隣に陣取るように新聞紙を広げた。書道用紙を広げるところまでてきぱきと準備をこなしていたが、その動きが急に止まり、先程彼女の自室で見せたように腕組みをした状態で立ち尽くしてしまった。
疑問に思い、見かねた美由希が声をかける。

「フェイトちゃん、どうしたの?」
「あの……これからどうしていいか、全く分からなくて……」

そして、先程の行動をなぞるように、アルフに向けられたものと同じ表情をした。
美由希は、なるほどと思う。
現在のハラオウン家のメンバーを考えれば、フェイトがなのはを訪ねてきた理由がおのずと明白になる。
恭也はなのはに掛きりになっているので、美由希がフェイトの面倒を見ることになった。

「そしたらまず、墨を用意しよう」
「スミ?」
「ほら、隣でなのはがやってるでしょ?」

美由希の指し示したとおり、隣ではなのはが硯で墨をすっていた。
その様子を、フェイトは首をかしげながら観察し、そして美由希に問いかけた。

「あれは何をしているんですか?」
「うーん、そこから説明しないといけないか……、これは意外と骨が折れるかもしれないね」
「あ。す、すいません」
「あー、いいのいいの。気にしないで。ご近所さん同士、持ちつ持たれつよ」

美由希は落ち込みそうになるフェイトをなだめながら、フェイトの持参した道具箱の中をあらためる。
硯に墨、そして筆、その他もろもろ。どれも買ったばかりの新品で一通りのものは揃っているようだった。

「まず、これとこれ。硯と墨ね。硯に水を入れて墨をするの。水に墨を溶かし込むことによって……うーん、インク……。そうね、インクを作るの」
「水から作るんですか? 結構気の遠い作業ですね」
「そうね。墨をすることによって、気持ちを落ち着けて精神統一をはかるっていう目的もあるんだけど、まあ、フェイトちゃんの場合初心者だからね。いきなりはきついし、市販の墨汁から始めよっか」

そう言って、フェイトの硯に墨汁を入れ始める美由希。
しかし、その美由希に抗議の声が上がった。

「えー! それ、なんかずるい! 私はちゃんと水からすってるのに!」
「いいから、なのはは自分のちゃんとする!」

なのはの頭に手を置いて、まっすぐ前を向かせる恭也。だが、なのはは納得がいかない様子だった。

「えー、でもー」
「今からすり始めたんじゃ、日が暮れちまう、とまではいかないにしても、時間がかかっちゃうからな。早く終わらせないと、フェイトちゃんと遊ぶ時間が減っちまうぞ」
「……そうだねっ。ちゃっちゃと終わらせよう」

一転機嫌の良くなったなのはを見て、フェイトは思った。恭也はなんて妹の扱いがうまいのだろう、と。そして、いずれ扱い方を教わりたい、と。
しかしながら、恭也の言うことももっともで、早めに終わることに関しては異論はない。脇道にそれる思考を軌道修正するフェイトだった。

「あれ? フェイトちゃん。文鎮がないよ?」
「ブンチン?」

フェイトの道具を用意していた美由希が唐突に言い出す。

「文鎮ていうのはね、紙を押さえるのに使うおもりみたいな物。道具のセットを買うときについてなかった?」
「ああ、ありました。このくらいの金属の棒ですよね」
「そうそう。そんなの」

両手の人差し指で三十センチほどの長さをしめすフェイト。そして、片方の指をそのままこめかみに当て、小首をかしげた。

「あれ? 入ってませんでしたか?」
「うーん、入ってないねえ。ここに来るときに忘れてきちゃったのかな」
「……そうかもしれません」

フェイトには、なのはのことを想うあまり他の物事が視界に入らなくなることがしばしばある。
今日も、とるものとりあえずやってきた感じであったため、部屋に置き忘れてしまっていた。

「うーん、どうしようか。何か代わりのおもりになるものは……」

美由希は周りを見回して代用品になりそうなものを探し始める。
そんな美由希の様子を見て、フェイトは何かを思い出したかのようで、スカートのポケットから何かを取り出した。
先程から、隣のフェイトの様子が気になるなのはは、墨をすりながらフェイトの様子をちらちらとうかがっていた。そのため、フェイトが取り出したものを見て、泡を食って止めに入った。

「フェイトちゃん! さすがにそれは、バルディッシュがかわいそうなの!」
「――はっ!」

あろうことか、フェイトは自分の右腕とも言うべきインテリジェントデバイス「バルディッシュ」を文鎮代わりに使おうとしていた。
おそらくなのはが止めていなければ、バルディッシュは「ブンチンフォーム」という、斬新かつ不名誉な形態を獲得してしまうところであった。

《Yes sir》

口数の少ない「彼」のことである。フェイトにお願いされたとあれば、二つ返事でこう言ってしまうに違いなかった。
ちなみに、フェイトの文鎮は美由希が昔使っていたものを貸してもらうことで事なきを得ている。












「それで、フェイトちゃんはどんな言葉を書くの?」

筆の使い方。止め、はね、はらい。
基本的な練習を終え、いざ清書に取り掛かろうとしたとき、美由希がフェイトに問いかけた。
フェイトがどんな字を書きたいかが分からなければ、どのように教えていいか分かるはずもない。美由希の質問は至極当然のものだった。

「えっと、先生からは好きな言葉を書いてくるように言われてて……」
「そっか。けど、いくら好きだからといっても『高町なのは』なんて書いちゃダメよ」
「えっ! ダメなんですか!!」

静まり返る道場。
もとより静かな道場の中の空気であったが、今しがたフェイトの張り上げた大声によってさらに冷たく静寂が訪れた。

「ははっ。もー、フェイトちゃんたら、冗談がうまいんだからー」
「え? あ。そ、それほどでも……」

フェイトの頭を撫でながら、笑顔の美由希が言う。
そんな二人のやり取りが、次第に板張りの床でできたこの空間の空気を変えていく。それを見ていた恭也も思わず顔をほころばせていた。
だが一人だけ、なのはだけが冷静に状況を分析していた。
顔は笑っているが、目は笑っていない。

「(フェイトちゃんは、あんな冗談なんか言わない……。つまり、本気だったんだ……。よかった、新年早々二人して恥をかかなくてすんだの……)」












「できた!」

完成を告げる同じ言葉が、ほぼ同時にあがった。
なのはとフェイト。二人とも手や頬に墨で汚れを作りながらも、満面の笑みを浮かべて自分の作品をしばし眺めていた。
「全力全開」。
誰あろうなのはの作品である。実に彼女らしい分かりやすい作品である。
だが、この言葉を書く前に「大艦巨砲主義」と書こうとして恭也に止められていたのだが。
目を転じて、フェイトの作品にはこう書かれていた。
「家内安全」と。

「渋いな……フェイトちゃん」

物腰が大人びている恭也をして、こう言わしめる作品である。
なのはの名前を断念したフェイトだったが、美由希と相談して必死に考えた末の選択だった。

「一緒に暮らしているリンディさん、クロノにエイミィ、そしてアルフ。みんな元気に楽しく過ごせたらいいなって、そう思ったから……」
「うん。うん! すごくいいよ! フェイトちゃん」
「ありがとう……なのは」

目の前の宿題が片付いた開放感からか、はたまた自分の想いを親友が理解をしてくれたから、フェイトの顔にはこれ以上ないほどの大輪の花が咲いていた。












そして、奇しくもフェイトと同じ文句を書き上げた少女が同じ町にいた。

「ねえ、はやて。これ、なんて書いてあるの?」

問いかけられた少女は振り向き、優しく教え諭すように語った。

「これはな、ヴィータ。『かないあんぜん』て書いてあってな、家族みんなが今年一年、健康で事故もなく無事に過ごせますようにって意味が込められとるんよ」
「ふーん。……うん、なんか……いいな」
「うん、今年もよろしくな。ヴィータ」
「おう、よろしくされたぞ!」






――今年も良い年でありますように。








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