カレー


時空管理局本局。
次元世界の秩序を守る非営利組織の中枢である。
時空管理局の仕事の性格は警察や裁判所、軍隊のそれに近い。そのため、厳粛とした空気に満ちた施設だが、今は一層その厳かな雰囲気が充満していた。
早朝である。
基本的に二十四時間活動の組織ではあるが、運営しているのが人間である以上休息が必要になる。
一部当直の局員を除く、ほとんどの人員が休息をとっていた夜が今まさに明けるかどうかの時間帯。
しんと静まり返った空気が、本局全体を包み込んでいた。
その本局のドックに係留されている一隻の艦船がある。
巡航艦アースラ。
その艦内の廊下を、ゆったりとした歩調で歩く人物がいた。
執務官クロノ・ハラオウン。早朝の時間帯であるので、周囲には彼以外の人影は見えない。
目頭を押さえながら低く唸り声を上げた彼の表情は、さえないものだった。
目の下にはクマができており、髪もボサボサで唇もやや荒れている。普段であれば背筋を伸ばして歩くクロノであったが、今日に限っては両肩が元気なく落ちている。
徹夜明けの今にも倒れそうな身体を励まし、目に見えるほどの疲労を体全身で表しながら、彼は歩き続けた。

「眠い……、けどそれ以上におなかがすいたな。何か簡単なものをおなかに入れて、家に帰って寝よう」

目的地は食堂のようだった。
疲れからくる重い足取りで食堂にたどり着いたクロノは、直後違和感を覚えた。
まず敏感に感じ取ったのは、自分の「嗅覚」。
嗅ぎ慣れない匂いが食堂に充満していた。
空腹のクロノのおなかを刺激しさらに食欲をそそる香り。エキゾチックな中に不思議と懐かしさを感じさせるものがあった。
簡単に言うと、とてもおいしそうな匂いであった。
そんな匂いの元を探すのは簡単だった。
現在食堂には、クロノを除くと別の一団しかいない。ならば、この食堂全体を占拠している匂いの原因は彼らしかいないはずである。

「あー、その。……君たちは、一体何をしているんだ?」
「あ。おはよー、クロノ君。どや? クロノ君も一緒に」

その一団とは、係留中とはいえ巡航艦の中で、一家団欒と体現している八神家の一同だった。
その中心人物である八神はやては、クロノに食事を一緒にと勧める。
促されてテーブルの上を見ると、そこにはクロノの知る料理が人数分用意されていた。
やや深めの皿に盛られた白いご飯と黄色のルー。小鉢に緑色のサラダとワンポイントの赤いプチトマト。
見た目にも鮮やかな食事が用意されていた。

「これは……、たしか『カレー』とか言ったか?」
「そうや。うちのみんなはこれが大好きなんよ。いや、うちだけやあらへん。いまや日本人の国民食と言っても過言やあらへんな」

なぜか胸を張りながら料理について説明するはやて。
たしかに美味そうだ。先程から、嗅覚と視覚が自分の食欲を刺激していてたまらない。
PT事件以来、何かと「地球」の料理を味わうことが多いクロノであったが、当然この「カレー」も何度か味わっている。
ルーに溶け込んだスパイスが適度に刺激的で、食がよく進む。クロノ自身も、この料理の味は個人的な嗜好に合っていると感じていた。
だがしかし、徹夜明けの身体にこの料理は合わない。
胃腸に負担の少ない、スープか何かを求めていたクロノにとってしてみれば、この料理は許容量を超えた劇薬に他ならない。

「いや……ご好意はありがたいが、今はえん――」
「ささ、座ってや」
「……はい」

はやての不思議なプレッシャーに押され、なし崩し的に席に着くクロノ。
クロノの分のカレーも手早く用意され、八神家プラスαの朝食の運びとなった。

「うん……美味しい」
「えへ、ありがとう」

素直な感想を口にしたクロノと、料理を褒められた礼を言うはやて。
クロノの朝食に対する心配は杞憂に終わった。
食べ始めてみれば不思議なもので、すいすいと食が進む。
はやての料理が高い水準を誇っていることや、八神家の団欒の雰囲気の暖かさなどが食事を一層美味しくさせているのだが、やはり決め手となったのはこの「カレー」という料理の持つ魅力に他ならなかった。
カレーを半分ほど食べ進めたところで、ようやく空腹感が落ち着いてきたのか、クロノは周りの様子を観察してみた。
まずは左隣に座るはやて、小学生の少女らしくこのメンバーの中で皿に盛られたカレーの量が一番少ない。
みんなの食べる様子を満足げに眺めながら、自分もスプーンを動かしている。
さらにその左隣のシグナム。団欒の中口数が少なく憮然としていることが多いが、料理の味を堪能していることがうかがえる。
はやての正面にすわるシャマルはといえば、いかにしてはやての技を盗もうかと、しきりに頷きながら食べている。
そして、クロノから一番遠く、シャマルの右隣のヴィータ。
なぜかことあるごとに、クロノに視線を送ってくる。
女の子からちらちらと見られるというのは、男からしてみれば決して悪い気はしないだろう。
だがしかし、今のクロノには生きた心地がしなかった。
なぜならば、そのヴィータの視線には多分に殺気がこめられており、クロノに精神的なボディブローを浴びせ続けていたからだった。
クロノはヴィータからいわれのない恨みを買ったようだったが、残念ながら心当たりがなかった。









「うう……うーん、よく寝た……」

海鳴のマンションの自室で目覚めたクロノは、寝ぼけ眼をこすりながら時計を確認する。
時刻は、ちょうどお昼だった。
アースラの食堂で朝食をとったクロノは、徹夜明けの睡魔とおなかを満たしたことによる睡魔の同時攻撃にさらされながらも、何とか自宅にたどり着いた。
しかし、服を着替えるのもわずらわしかったのか、上着を脱ぎ捨て肌着のままベッドにもぐりこんでしまっていた。
ベッドから降りたクロノは差し当たっての欲求に駆られる。
頭がもやもやしており髪がかゆい。身体もべたべたとしており気持ちが悪かった。
まずこの不快感さを取り除くべく、クロノは着替えを用意してシャワーを浴びることにした。



十分後、同じマンションの部屋の台所で、食料を物色するクロノの姿があった。しかし、その表情は曇っていた。
落胆しながら冷蔵庫の扉を閉じると、ため息とともにつぶやいた。

「何も食べるものがないな……」

十分な睡眠と熱いシャワーで昨夜の疲れを流し落としたクロノは、次なる欲求に捕らわれていた。
食欲である。
今朝、躊躇しながらもなんだかんだ言ってカレーを一人前平らげたクロノであるが、寝て起きて頭がすっきりするとおなかが空いていることに気がついた。
やはり育ち盛りの男の子である。
ちなみに現在のハラオウン家には、誰もいない。
母親であるリンディと、同僚のエイミィはともに職場である時空管理局に出勤している。
ちょうどクロノと入れ違いで出かけていった。
義妹のフェイトも同じである。昨日から泊り込みの勤務で、帰宅していない。
彼女の使い魔であるアルフは特に外出の用事がないはずであるが、なぜか今はいなかった。
まあアルフがいたところで、クロノの食欲を満たす昼食を用意できるかと言えば、はなはだ疑問であった。

「仕方ない、外で何か食べよう」

決断すればあとは早い。
クロノは手早く出かける準備を整えるとマンションから出て、愛車である黒の自転車に跨って出かけていった。
特に目的地は定めていなかったが、大まかに駅前の繁華街方面へと向かっていった。









カランカラン――。

ドアに取り付けてある鐘が来客を告げた。
ここは、翠屋。海鳴の駅前にある人気の喫茶店である。
来客に対応するべく、店員の一人がドアに向かった。

「いらっしゃいませー。って、クロノ君じゃない。どうしたの?」
「こんにちは、美由希さん。……美由希さんがここにいるということは、今日は日曜日でしたか?」
「クロノ君……。とうとうボケちゃった?」
「…………」

客として来店したクロノに対してあんまりな言葉を言う美由希だったが、クロノはさほど気にしている様子はない。
逆に曜日の感覚がなくなっている自分自身に、落ち込んでいるようだった。

「ま、気にしない気にしない。さ、こちらへどうぞ」

翠屋のロゴが入ったエプロンを身につけた美由希に、店の奥へと案内されるクロノ。
クロノが自宅マンションで目覚めてから翠屋へたどり着くまでに色々と時間をつぶしていたためか、現在はお昼時のピークを過ぎており空席が目立つ。
クロノが翠屋を訪れた理由は二つあった。
朝食にカレーというボリュームのある料理を取ったので、夕食までのつなぎとして多少軽めの食事を取っておいたほうがいいと考えたことが一つ。
そして、もう一つ。あまりこの街に詳しくないので、結局選択肢の幅が狭いという理由があった。

「はい、クロノ君。座って座って」
「どうも」

クロノの案内された席はカウンターに程近いボックス席だった。
クロノが席に着くのとほぼ同時に、水の入ったグラスをトレーに載せたなのはがやってきた。

「いらっしゃい、クロノ君。よかった、グッドタイミングなの」
「やあ、君もお店の手伝いか……って、グッドタイミングって何のことだい?」
「もうすぐ出来上がる頃だから、待っててね」
「え? あの、なのは?」

クロノの問いかけに何も答えず、なのはと美由希は奥に引っ込んでしまった。
クロノは嫌な予感がした。

――グッドタイミング。
――なのはの口にした言葉だが、一体どのような意味合いがあるのだろうか?
――それに、もうすぐできると言っていた。
――できるも何も、まだ何を頼むか決めていないし、頼んでもいない。

クロノの疑問は、次にテーブルを訪れた人物によって解消されることとなった。

「お待たせ、クロノ君。そして、いらっしゃい」
「あ、桃子さん。ど、どうも――って!」

テーブルに置かれた料理を見てクロノは言葉を失った。
ごく最近、味わったばかりのスパイシーな匂い。だが、程よく空腹感があるためか、食欲を刺激してくる。
カレーである。
しかも、三種類。

「あの……これは?」
「カレーだよ。クロノ君、食べたことあるよね?」

クロノの質問は、見当違いの角度でなのはから返ってきた。
カレーは知っている。見れば分かる。

「いや、そうではなくて――」
「うちで新しいメニューを取り入れようって話になってね。それで、年齢性別問わず人気のあるカレーを選んでみたの。クロノ君は、いわゆるモニターってやつよ」

美由希の言う新商品のモニターというのは分かった。
ご近所でもあるし、そういう話なら喜んで協力しようと、クロノは思った。

「いや、ですから――」
「もう、こっちからお願いしてるんだから、お代はいいわよ」

桃子から、料金の心配事について説明される。
だが、話の論点はそこではない。

「ありがとうございます。……ではなく! なぜ『三種類』もあるのですか?」

イの一番に疑問に思った点、クロノは一人である。であるのに料理は三人前用意されている。
これは一体どういうことであろうか?
三人を代表して、桃子が答えた。

「新商品のサンプルでね、何種類か案を出してその中から選んでいこうと考えてみたの」
「はあ」
「クロノ君の意見を参考に最終的にどれにするか決定するつもりだから、責任は重大よ」

相槌を打つクロノの様子を見ながら、桃子の説明を美由希が引き継ぐ。

「それで、私たち三人が思い思いに作ってみたのがこの三種類のカレーなのよ。あ、ちなみに、どれが誰の作ったカレーかは秘密だからね」
「? 別にそれは、伏せる必要はないと思いますけど……」
「ホントにぃ? なんだかんだで、結局なのはのを選んじゃうような気がするんだけどぉ?」

ニヤニヤと黒い笑みを浮かべながら、クロノを問い詰める美由希。
そんな美由希を見ると、クロノはなぜかエイミィを思い出した。
今の美由希の表情は、エイミィが色恋沙汰でクロノをいじるときに見せる表情に、非常に似ていたからだった。
類は友を呼ぶ。
美由希とエイミィ。この二人が親友になったのは、もはや必然と言えた。

「お、お姉ちゃん、ちょっと……」
「いえ、そうですね。公平さを尊重して、誰が作ったかは秘密のままにしておきましょう」

なのはが美由希に対して抗議の声を上げようとしたが、クロノはさっさと話を進めて、この話題を切り上げることにした。
この手の話を振ってきたエイミィから逃げるときは、さっさと話題を変えることが最善の逃げ道であることを経験から知っていたためである。
ちなみに、美由希の指摘は図星である。
三人のうち誰かを選べと言われたら、間違いなくなのはを選んでしまうだろう。

「さてと……」

クロノは改めてテーブルに並べられたカレーを見る。テーブルに並べられた三種類のカレーはどれも個性的であった。
向かって一番左のカレーは、もっともオーソドックスなカレー。特にこれといって特徴が見られないが、とっつきやすさから見れば一番無難なカレーである。
スプーンを手に、まずは一口味わってみた。

「おお……」

思わずため息がこぼれた。
まず感じたのは、味。
なんとも深みのある味で、市販されているカレールーでは表現できない味である。
朝に食べた八神家カレーと比べると、その味の奥行きがはっきりと分かった。
クロノ自身、はやてのカレーを卑下するつもりは微塵もなかったが、一般家庭の水準を軽く超えている八神家カレーを基準に考えると、この左のカレーはもはや家庭の味では到達できないものがあった。
いわゆるお店で食べるカレーと、家で食べるカレーの決定的な違いをはっきりと示していた。
クロノは味見と言うことを忘れて、思わずさらに盛られたカレーを全部平らげてしまった。
次いで中央のカレー。イカやエビなどの海産物を取り入れたシーフードカレーだった。
左のカレーで非常にレベルの高いカレーを食べた直後である。
幾分の期待を胸に、クロノは中央のカレーに手を着けた。

「う、うまいぃぃぃぃぃぃいい!!」

思わず口から光がほとばしった。
もはや筆舌に尽くしがたい。
ただただ、うまい。この一言である。
無理矢理言葉に表すとすれば、あまりものうまさに生身で海の上を走り、あまつさえ素手で海を割ることができてしまいそうな味であった。
これは、美味しすぎてある意味危険である。
あまりもの美味さに、気がつけば目の前には空の皿があった。
最後に、クロノは右のカレーを見た。
その、なんというか、「黒い」。
黄色とか赤とか、辛さを表現する色を極限まで突き詰めていくと出てくる色に近い。
さすがのクロノもたたらを踏む。
前二つのカレーを食べた手前、そしてモニターを引き受けると言ってしまった手前、クロノはこのブラックカレーに挑まなければならない。
スプーンを握る手に、緊張が走る。
一口分すくって、そのまま口へ。

「っかあぁっ!!」

思わず口から火が出た。
辛いなどと言うものではない。一瞬にして口の中を、苦いとか痛いなどの言葉が支配する。
クロノの目の前には光が広がり、その向こう側に今は亡き父親の姿が見えたというのは、後にクロノが語った言葉である。
耐え切れなくなったクロノは、すかさず水の入ったグラスを手に取る。のどの奥にぶつけるような勢いで水を流し込んだ。

「…………ふぅ」
「大丈夫? クロノ君」
「ごちそうさまでした」

ひとまず、食べるのを終えたことを宣言したところで、三人の視線に気がついた。
それぞれ心配そうな表情でクロノを見つめている。
口の中の辛さがある程度引いてきたことによって、クロノは自分が新メニューのモニターを引き受けていたことを思い出した。
どれが誰の作ったものかはわからないが、この三種類のカレーは彼女たちの力作である。
この中のどれかひつとのカレーを選ぶということは、三人の中の誰か一人のカレーを選ぶということになる。
カレーを二杯と一口食べ終えたクロノは思った。
三種類とも一般的なカレーの範疇を超えている。ただし、それぞれのベクトルが良くも悪くも別々の方向を向いていた。

「それで、どうかしら? クロノ君は、どのカレーが一番いいと思う?」

三人を代表して桃子がクロノに問いかけた。
しばらく考えたあと、クロノは一つのカレーを指差した。

「このカレーがいいと思います」
「……理由を聞かせてもらえるかしら?」

クロノの選んだカレーは、一番最初に食べた左側のカレーだった。

「そうですね。理由としては、一番平均的だからということです」
「平均的?」
「個人的に、真ん中のシーフードカレーが一番美味しいと思います。ただ、実際にお店にメニューに加えるときに、こういった魚介類が苦手な人もいると思います。そういった人たちのことを考えると、もっともスタンダードなこの左のカレーを推させてもらいます」

桃子は少々残念な表情をしながらも、クロノの言葉を受け取った。

「そうね。一番お店のメニューにあったカレーという観点から見れば、なのはのカレーが一番ね」
「え? これ、なのはのカレーだったんですか?」

急に種明かしをされてあっけにとられるクロノ。
見れば、なのははその表情に嬉しさと恥ずかしさを仲良く同居させている。

「そうね、クロノ君の言う通り、一番スタンダードなメニューで勝負するとしましょうか。ま、私も一番美味しいって言われただけでも良しとするか」

桃子の言葉から、真ん中のシーフードカレーが彼女の作ということが分かる。まあ、三人の実力から考えれても分かることかもしれない。
そして、最後に残った作品は、というと。

「ねえ、なのは。私の作品、どこが悪かったのかなぁ……?」
「え、えっと。うーん、どこだろうね……?」

つまり、例の黒いカレーは美由希のものとなる。
以前、クロノは高町家の大黒柱士郎から聞かされたことを思い出した。
曰く、美由希にはこと料理に関する才能が皆無である、と。
あくまで納得がいかないと、騒ぎ立てる美由希を見つめながら桃子がつぶやいた。

「よく考えたら、美由希に料理をさせるのは危険よね」
「よく考えなくても、危険です」

とりあえず、突っ込んでおくクロノだった。









日が傾き、街をオレンジ色に照らすころ、クロノはこの日二度目の目覚めをした。
身体の気だるさに耐えながら身体を起こす。
クロノは起き抜けの頭で現状を確認した。少し前のことから順を追って思い返す。
家に帰ってくるなり、ベッドに倒れこんだのは覚えている。では、なぜ倒れこむほどに状態にまでなったのか。
答えは簡単。許容量を超えて、食事をしたためだ。なぜ、そんな満腹状態に陥ってしまったのか。
ここで、クロノの思考が一旦止まる。
まるで、いやな過去を思い返したくないような感じで。
ため息を一つついて、思考を再開する。
翠屋に着くや否や、新商品のモニターを半ば強引に引き受けさせられたことまで思い出した。
そこで出されたカレーが思いのほか美味しかったため、調子に乗って二杯も平らげてしまったことは、完全に誤算である。
自宅に戻って、日ごろの疲れが出たため再びベッドに倒れこんだおかげで、今はもう夕方である。
自室の窓から差し込む光が、時計を見ずとも現在の時刻をアバウトに教えてくれていた。

「のどが渇いたな……」

クロノはベッドから置きだして、水分を求めた。
今日は朝からずっとカレーを食べ通しである。
口の中から胃の中、腸の中まで全部カレーの味がしていそうな錯覚にとらわれた。
部屋のドアを開けて、キッチンへ。
冷蔵庫にミネラルウォーターのペットボトルがあるはずだ。
ギンギンに冷え切った水を、乾ききった身体に流し込んだときの爽快感は格別である。
だが、ここでクロノの嗅覚は本日三回目のスパイシーな香りをキャッチした。

「いかん、いかん。いくらなんでも、カレーを食べ過ぎただけで幻覚を味わうようでは、時空管理局執務官の名折れだ……」

クロノは部屋中に充満するカレーの匂いを、無理矢理自分自身の錯覚と思い込もうとしたのだが、現実はそれほど甘くはなかった。
リビングにたどり着くと、そこには母親であるリンディを始めとしたハラオウン家の女性陣が勢ぞろいしていた。
女三人集まればなんとやらとはいったものだが、現在キッチンにはもう一人多い四人の女性がひしめき合っている。
それに伴って、溢れるにぎやかさも割り増しされていた。

「お、クロノ君。おはようー!」
「起きてきたな、クロノ。って、エイミィ、もう夕方だよ」

にぎやかな女性の中でも、ひときわにぎやかな方の二人がクロノに気がつき話しかけてきた。エイミィとアルフである。

「ああ、エイミィ。お帰り。ちなみに、みんなして何をしているんだい?」

程よくテンションの高い二人との温度差を感じつつ、クロノはキッチンでの出来事を問いかける。
クロノ自身、返ってくる答えは分かっていた。だがそれでも、心の奥底のどこかで、違う答えを期待していた。
そう、「カレー」以外の、回答を。

「カレー作ってるのさ」
「うっ……、そ、そうか」

そんなクロノの心情など露知らず、エイミィはあっさりと現実を突きつけてきた。
見ればリンディとフェイトは仲良く会話をしながら、付け合せのサラダの盛り付けを行っている。
カレーの鍋はすでに完成されているらしく、蓋をされ出番を待っていた。
クロノは自分のおなかの具合を測った。
翠屋から帰ってきてすぐさまベッドにもぐりこんだためか、多少空いてきてはいるものの、カレー二杯分のランチは相当こたえているらしく、まだまだ夕食のカレーが入る余地は無い。
それ以上に、向こう数か月分のカレーを食べたような気がしている。これ以上「カレー」は食べられない。
そう考えたクロノは、体調の優れないことを理由に、夕食を辞退することにした。

「あー、エイミィ。いいかな?」
「ん? 何かな?」
「申し訳ないんだけど、おなかがちょ――」
「あ、クロノ。起きてきたの?」

サラダの盛り付けが終わったのだろう、フェイトはクロノが起き出してきた事に気がつき話しかけてきた。

「あ、ああ。お帰り、フェイト。それと、突然で申し訳ないんだけど――」
「どうしたの?」

食事を取らずに部屋で休むつもりの旨をエイミィに告げようとしたクロノだったが、誰でもいいだろうとフェイトに伝えてしまおうと考えた。
だが、クロノはそれを目にしてしまう。
それは、自らの目論見など全てを無に帰してしまうほどの威力を持ったものである。



フェイトの指に巻かれた、ばんそうこうを。



「おなかがちょうど空いてきたところだから、食事の前に手を洗ってくるよ」
「? そう? じゃ、盛り付けして待ってるからね」
「ああ、よろしく頼む」

クロノは顔で笑って心で泣いていた。
そして自分の運命を恨んだ。

――なぜこんなにも、カレーばかり食べる羽目になったのか?
――なぜこんなにも、僕の周りには強い女性ばかりなのか? ――それよりなにより、義妹が指にばんそうこうを巻いてまで作ってくれた料理を食べないという選択肢がない。

その日、自宅で食べた最後のカレーの味を、クロノは良く覚えていなかった。
ただ、食べた。がむしゃらに食べた。
アルフが感心するような食べっぷりだったらしいが、そんなことはどうでもいい。
ただ、今日この一日が早く終わってくれることだけど、強く心に願っていた。









翌朝、ハラオウン家の誰よりも早く起きたクロノは、家族から逃げるようにアースラに来ていた。
もちろん、昨日のカレー漬けの余波からか、朝食は抜いてある。
まだ早朝の時間帯の艦内を、昨日と同じように疲れた様子で歩く。ただ、昨日とは全く違った理由で疲れていたのだが。

「……昨日は散々だった。とりあえず、コーヒーでも飲んで落ち着こう……」

クロノの向かった先は、食堂だった。
その目的地の食堂から、なにやらにぎやかな空気と嗅ぎ慣れた匂いが漂ってきた。
クロノは思った。嫌な予感がする。昨日と同じ動きをトレースしているような気がする。

「あ。おはよー、クロノ君。どや? クロノ君も一緒に。一晩寝かせたやつやから、昨日のよりも美味しいと思うんやけど」




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