円、ところにより、くぎみー 前編


「ただいまー、って言っても誰もいないか」

麻帆良学園女子中等部女子寮の一室。
この部屋の住人の一人である、釘宮円が帰宅した。
残り二人のルームメイトは、それぞれかけもちをしている部活に顔を出すため、彼女より送れて帰宅することになっていた。
円は学校の帰りに立ち寄ったと思われるスーパーのビニール袋を台所の流し台へ置き、部屋の窓を全開にする。
夕暮れの少し夜気を孕んだ風が頬をなでる。少し肌寒い気もするが、一日閉め切っていた部屋の中にあるよどんだ空気を入れ替えるため、しばしのガマンである。

円は制服に身を包んだままだったが、着替える前にまずすることがあった。上着だけ脱ぎソファーの上に放り投げる。
台所に向かい、シャツの腕をまくり炊飯器の内釜を取り出す。
内釜には水が張られていた。これは昨晩のうちに円が入れておいたもので、残ったご飯粒が水によってふやけて、翌日洗いやすくなるというものである。
内釜をきれいにした後、シンクの下から米びつを取り出し内釜へ一合半の米を投入。適量の水を入れた後、そのまま炊飯器へセットして「炊飯」のボタンをオン。
スーパーの買い物袋から冷蔵庫へ食材をしまったあと、洗濯物を取り込むためベランダへ向かった。
ちなみに、「米を研ぐ」という作業工程がなかったのは、単に円の使用している米が「無洗米」だったからである。
最初こそ、味と風味が落ちるというルームメイトからの不満の声があったが、利便性がまさり、今や無洗米がこの部屋のスタンダードとして定着していた。

部屋の窓を閉めた円は、制服を着替えた。
襟元のゆったりとした紺色のTシャツの上に白のカーディガンを羽織る。下は明るいグレーのスウェットを履き、人心地ついた感じでソファーに腰掛けた。
夕食までの空いた時間を雑誌でも読んですごそうかとした円だったが、自分の机の上が散らかっていることに気がついた。
ペン立てからボールペンやサインペンなどが抜き取られ、机の上に無造作に転がっている。

「美砂がこんなことする訳ないし、さては桜子だな。まったくアイツは……」

桜子に対する愚痴を彼女の飼い猫にこぼそうとした円だったが、二匹はそれぞれ部屋の隅とベッドの上で夢の世界の住人となっていた。
猫に愚痴をこぼしても自分が惨めになるだけなので、あとで本人にきつく言うことにした。



突然の来客があったのは、それからしばらくしてからだった。

「こんにちは。あら、ちょうど円さんがいてよかったわ」

円が部屋のドアを開けると、そこにはクラスメイトの那波千鶴がいた。
正直、円には彼女が部屋を尋ねてくる理由が見当たらなかった。
チア三人組と千鶴にはほとんど接点がない。仲が悪いというわけではないが、特に親しいというわけでもない。
また千鶴の発言から、円一人を訪ねてきた節も見受けられた。円自身、千鶴がどうして訪ねてきたのか、皆目見当がつかなかった。

「こんにちは、那波さん。えっと、何か用?」
「用というほどのことではないの。ただちょっと、落し物を届けに」

落し物、と聞いて訝しげだった円の表情が和らぐ。しかし、落し物の正体を知って表情がばつの悪いものへと変わる。

「これ、アンダースコートって言うのかしら。いくら女の子しかいない女子寮だからといって、落ちてそのままにしておいては恥ずかしいわね」

アンダースコート、アンスコといえば、チアリーダーや女子テニスの選手などがスコートと呼ばれるショートスカートの下に着ける履きもので、知らない人から見れば、大きめの下着にしか見えないものだった。

「あ、ありがとう……。あ、あの、せっかくだから、少し上がってかない?」

アンスコを受け取り自分のものだと確認したが、気まずさと恥ずかしさから、つい思ってもいないことを口にしてしまった。

ちょっと、何言ってんのよ、私は。

後悔先に立たず。
運悪く、目の前にいる千鶴は、人の行為を無碍にしない性格のいい人間だった。

「あら、そう? そうね、夕食までまだ少し時間もあることですし、お邪魔させてもらいますね」

おほほ、と聞こえてきそうなジェスチャー。指をそろえ伸ばした手を口元に当てて、千鶴は微笑んでいた。
いったい何を話そうか。とりあえず、お茶を出して。改めてアンスコの件のお礼を言って。えーっと、それから、それから……。

招かざる客を迎えた円は、心中穏やかではなかった。


<後編>

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