たとえばこんな一日

第二話 狙撃手の外出


ロビーのエレベーターが開き、中から一人の生徒が伸びをしながら出てきた。白地に紺のボーダー柄のインナーに、白のパーカー。モスグリーンのハーフパンツといったラフな格好をしている。
彼女、早乙女ハルナは起き抜けなのか、眠たそうな目をしていた。

「んー、ダメだわ。完全に根詰まりね。アイディアがちっとも出てこない」

片手で肩を揉みほぐしながらベンチタイプのソファーへと向かう。もう片方の手にはB6サイズのリングノートとボールペン。「アイディア」の単語から察するに、このノートはおそらくネタ帳であり、何のネタかは推して知るべしといったところであろう。

「お? あれは、柿崎に……。なんか珍しい組み合わせね。しかも、これまた珍しい時間帯にお出かけか……」

ハルナの視界の端に、美砂の後姿が映った。もう一人誰か別のクラスメイトと連れ立って寮を出るところだった。声をかけようかとも思ったが少し距離が離れているので、その考えをすぐに引っ込める。
ハルナはロビーに設置してあるソファーのひとつに陣取った。エレベーターから寮の出入り口までを見渡せる場所で、一日ここで観察をしていれば、誰が出かけたかそうでないかが分かる仕組みになっている。
人間観察とでも言おうか、ハルナがネタに詰まった際に行う解決法の一つである。要は、寮の中でも人通りの多いこの場所で、何かネタが拾えれば見っけ物、といった感じである。

「とはいえ、まだお店もやってないこんな時間じゃ、誰も通らないわね」

あくびをかみ殺しながら、独りごちる。ノートの真新しいページを開いてソファーの肘掛に置き、右手ではボールペンをクルクルと回しながら弄んでいた。
先程、美砂たちが出て行った出入り口を窺う。寮の前にはきれいに刈り整えられた芝生が広がっており、昼時ともなれば昼食を摂る生徒の姿でにぎわうものの、今この時間帯は閑散としていた。

「……コーヒーでも飲むか。まだ頭がすっきりしないし、これじゃアイディアなんて出てこないわね」

立ち上がり出入り口の方から振り返ると、そこにクラスメイトの一人がいた。

「――っと、えー。お、おはよう、龍宮さん」

ハルナは驚いた。人通りがほとんどなく静まり返ったロビー。最上階の六階まで吹き抜けであるにもかかわらず、静寂が建物全体を占めている。この状況でありながら、真名の接近に気が付かなかった。まるで、気配を殺して突然そこに現れたかのような登場の仕方だった。

「ああ、おはよう。早乙女」

そのセリフが自分への返礼であることに気付いたのは少し経ってからだった。
真名はハルナに対していぶかしげな表情を見せながらも、会話を止めるつもりはないらしい。ハルナの言葉を待っているようだった。
相手が待ってくれていることに落ち着きを取り戻したハルナは、改めて真名の様子を観察する。
黒のインナー、おそらくタンクトップであろう、その上に白のジャケット。そしてインナーと同じ色の綿パンという格好だった。しかし、ひときわ目を引くのは、彼女が担いでいるギターケースである。

「えっと、龍宮さん。出かけ?」
「ああ、ちょっと野暮用でな……」

どこの世界に、ギターケースを担いで野暮用に出かける人間がいるだろうか。不思議に思っていたハルナであったが、よくよく思い返せば、彼女は修学旅行のときも何故かギターケースを担いでいた。彼女なりのファッションなのであろうか。
ここで、早乙女ハルナという人間のやっかいな部分が表面に出てきてしまった。一度好奇心に火がついてしまうと、その勢いはとどまることを知らず、あらかた燃やし尽くすまで止めることができない。

「ねえ――」
「そういえば、綾瀬と宮崎はどうした?」

いきなり水をかけられたような感覚である。まさか真名のほうから質問が来るとは思わなかった。たとえ火の勢いが強くとも、燃え広がる前にバケツをひっくり返したような雨が降れば、消火はたやすいことだった。

「ああ、ゆえとのどかね。あの二人なら、朝早くから出かけてったわ。なんでも、神保町に行くとか何とか」
「ふむ、あの古書店街か。なるほど、彼女ららしいな」

さほど親しい間柄ではないため、真名からの質問をおざなりにすることができず、丁寧に返すハルナ。

「早乙女は行かなかったのか? 神保町へは」

ハルナの行動を警戒して質問の機会を与えないようにしているのは、意図的か。それとも、純粋に会話を楽しんでいるのか。先程から淡々と言葉をつむぐ真名の表情からは、その真意を窺うことができなかった。

「あはは。私はちょっとやることがあって。それに、行きたくてもゆえが許してくれないのよね。前に一緒に行ったとき、足を伸ばして秋葉原まで二人を連れてったのがまずかったみたい」
「? よく分からないが、早乙女には早乙女の用事があるということか」

真名には、「早乙女ハルナ」と「秋葉原」から連想される事象をいまいち理解できなかったようだ。

「ところで龍宮さん。そのギターケースは何? 修学旅行でも持ち歩いていたけど、まさか路上ライブとか?」

好奇心の火は完全に消えてはいなかった。くすぶり続けていた火は、再び炎となって燃え始める。
ハルナ自身、言葉にした自分の予想はよくできたものだと考えていた。真名がどこかの川べりでギターを弾き語っている場面を想像して、その姿が実によく似合うと思っていたようだ。

「残念だが、そんなことはしないよ。それと早乙女。世の中には『知らなくてはいけないこと』と『知ってはいけないこと』がある。覚えておくといい」

真名はハルナの言葉を否定した。それも相手の目をよく見て、多分に殺気をこめた魔眼でである。
ハルナは圧倒された。真名の言葉に重みがあることは確かだが、それ以上に真名の眼力に押される形となっていた。真名は数多の戦場を駆け抜けた歴戦の兵(つわもの)である。そんな相手に本気ですごまれては、一介の女子中学生には気圧される以外の選択肢はない。

「あ、はは。そうよね。龍宮さんがそんな事するわけないもんね。うん、ミステリアス。そういうことにしておこっと。………………。……ミステリアスね。……うん、その線で行ってみるかな」
「何がその線なんだ?」

急に何かを思いついたように、不敵に笑みをこぼし始めたハルナを見て、真名は思わず問いかけた。

「ん? んっふっふ。龍宮さん。世の中には『知らなくてはいけないこと』と『知ってはいけないこと』があるのよ。覚えておいて損はないわ」

形勢が逆転した。
おなじ台詞回しにもかかわらず、今度は真名が圧倒される形となった。ハルナの放つ得体の知れない雰囲気と、光の加減でレンズの向こうが見えなくなったメガネに押されて。ハルナは幾多の修羅場を乗り越えてきた歴戦の同人作家(つわもの)である。そんな相手に本気でにやつかれては誰だって逃げ出したくなる。

「と、そろそろ行かねば。じゃあな、早乙女」

事実、真名は時間を気にする素振りを見せて逃げ出してしまった。

「あ、うん。いってらっしゃい」

呼びかけられあっという間に元に戻ったハルナは、真名の背中に声をかけて送り出した。



自動販売機の前まで移動したハルナだったが、小銭を取り出したところで動きが止まる。
今しがた真名の出て行った出入り口を振り返った。そしてしばらく考えた後、ハルナもそちらに向けて歩を進め始めた。

「どうせ気分転換するなら、散歩がてらコンビにまで行ってみるとするか」

ハルナが出かけた後、再びロビーに静寂が訪れた。



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