たとえばこんな一日

第八話 動き出す、すといっくかんふーちゃいな


「んーっ、うーん」
「いやー、面白かったアル!」

まぶしそうに目をこすり、思い思いに体をほぐし伸びをする美砂と古菲の姿があった。
二人が先ほど買い物とランチを済ませたショッピングモールの程近く、映画館の建物の前である。
同じように建物から出てくる人がいたが、公開終了間近の作品でありそれほどの人数ではなかった。

「美砂。これからどうするアルか?」

お昼過ぎ、午後一番から始まる上映に時間を合わせたため、映画を見終わってもさほど日は傾いていない。しかし、渋谷から麻帆良へ帰る時間を考えると、自由に動き回れる時間はそんなに多くはなかった。

「んー、そうね。そんなに時間もないし。てきとーにお茶して帰ろうかと思ってるんだけど――――あ」
「ん? どうしたアルか」

キャップをかぶり終えた美砂が、あることを思い出した。
渋谷を訪れた最大の目的は「デート」そして「映画」であったが、それ以外に美砂には寄っておきたい場所があった。

「ゴメン、くーちゃん。ちょっとだけ寄りたいところがあるの。付き合ってくれる?」

――付き合ってくれる?
この言葉に敏感に反応したのか、古菲は一瞬にして、美砂から三メートルほど距離をとっていた。街灯に身を隠している。優れた武道家のなせる業だろう。

「今度はどこに連れて行くつもりアルか? もう、試着はこりごりアル」

ただ、明らかに警戒している様子である。

「違う違う。くーちゃんの買い物じゃなくて、私の買い物。ちょっと新しい楽譜を見ておこうと思って。ここからちょっと歩くんだけど、いいかな?」

身に危険のないことを確認して、恐る恐る街灯の陰から出てくる古菲。
それを、温かな笑顔で迎える美砂。
二人はゆっくりと歩き出した。



映画館を離れ、駅から遠ざかるように歩く二人。
歩きながらの会話の中で、美砂が映画の感想を口にした。

「けど、あのカンフーの動き、すごいわよね。絶対まねできないな」

二人の見た映画はカンフーがメインのアクション映画だった。本来美砂のデート用のチケットであったが、甘ったるい恋愛映画でなかったのが意外と言えば意外である。
しかし、古菲が喜んでついてきそうな内容だったのは確かだった。
古菲は美砂の言葉を好意的と受け止めたのか、小走りに美砂の前に躍り出た。

「あのくらいの動きなら、私にもできるアルよ。見るアル!」

街角で、突如カンフーの演舞を行い始める古菲。にわかにギャラリーが古菲の周りを取り囲んだ。
古菲の動きにあわせてうなり声を上げる観客。
美砂は、先ほど見た映画の動きが再現されていることに驚く。
古菲にとって、中国武術のなかでも普段とは違う流派のものだが、その動きはにわか仕込とは思えないほど綺麗で様になっていた。
はたと、美砂は気がついた。
ギャラリーの反応が少し妙である。
たびたび起こる歓声は古菲の演舞のすばらしさによるものだが、若干毛色の違う声が上がっていた。

「ん〜? ……あ!」

美砂は急に古菲に抱きついた。
何事かと思ったのは古菲だけではない。観衆もざわつき始める。

「美砂、今いいとこアル。止めないでほしいアル」
「ダメ! 早くここから離れましょ」

演舞を強制的に終わらされたかと思ったら、今度はさっさと移動しようと美砂は言う。
周囲の反応がよかっただけに、古菲も気分良く技を披露していた。しかし、美砂はすぐにこの場を離れたいらしい。
もともと、美砂の言葉を受けて始めた演舞である。古菲の心積もりでは美砂に喜んでもらうはずだった。

「いいから! 早く!」
「ム」

古菲は美砂の真剣な表情に迫られ、しぶしぶ動きを止め美砂についていくことにした。



「くーちゃん。スカートの中、見えちゃってたよ」
「ムム」

即席の演舞会場を離れたあと、しばらく歩いてから美砂は古菲に告げた。

「もう、くーちゃんは少し恥じらいというものを知りなさい」

眉を吊り上げて言う美砂に、古菲は何も言えなかった。演舞を止められたことに対し腹を立てていたが、それは美砂が自分のことを考えて行動してくれた結果だということが分かり、やり場のないもやもやとした気持ちだけが胸の中でよどんでいた。
そんな古菲の心中を察したのか、美砂は先ほどの古菲のカンフーに話を戻した。

「けど、くーちゃん。すごい格好よかったよ。さっきの映画の動き、そのまんまだったもん」
「そ、そうアルか」
「えーっと、なんて言うんだっけ。酔っ払って……」
「酔拳アル」
「そう! それ」

先ほどの演舞を褒められたこと、美砂が自分の気持ちを気遣ってくれたことが、古菲にはうれしかった。

「酔えば酔うほど強くなる、だっけ? なんかウソ臭いんだけど、あれってホントにあるの?」

――ウソ臭い。
この言葉に、古菲は引っ掛かりを覚えた。
美砂自身は特になんとも感じていない。
しかし古菲にしてみれば、たとえ自分が普段鍛錬を積んでいる流派のことでなくても、中国武術全体を見て、それを馬鹿にされてしまっているような感覚に陥っていた。

「確かに酔拳という門派はないアルが、映画の動きは『酔八仙拳』という歴とした拳法のものアル」
「えー。でも、酔えば酔うほど強くなるっていうのは、ちょっと信じられないんだけどなあ」
「そ、それは……」

事実、酒を飲んでまともに戦闘ができるか? と、問われれば、答えは明らかである。
美砂の言う酔拳は、あくまで映画の中に登場した娯楽要素の高い架空のもの。
それを、自分の習得している中国武術といっしょくたに扱ってほしくないと、古菲は考えていた。

「ね、くーちゃんは『もちろん』酔拳を使って戦えるんだよね?」

美砂に自覚はない。
しかし、古菲にとってこの一言は、自分の矜持を傷つける恐れがあった。そして、もともと古菲が持っていた、中国武術全般へのミーハー的な心を大きくくすぐる結果となった。
古菲は、自分でも気がつかないうちに立ち止まる。
そして美砂も、しばらくして古菲が立ち止まったことに気がつき振り向いた。

「どうしたの? くーちゃん」

古菲の様子がおかしい。呼びかけてみるも反応がない。少しうつむき加減で、何かを考えているようだった。

「くーちゃん?」

古菲のそばまで戻り古菲の顔を覗き込むように、美砂が問いかける。

「……確か、あそこに……」
「え?」

何か小さくつぶやいていた古菲の言葉は、美砂には届かなかった。

「よし! 帰るアル!」
「うわ!」

急に顔を上げ、古菲は大声で言い出した。
左手は腰に、右手はまっすぐ美砂を指さして。

「美砂、覚悟するアル! 酔拳の恐ろしさを味あわせてやるアル!」

言うや否や、古菲は駅のほうへと駆け出してしまった。
一人取り残された美砂は、しばらくの間呆然とその場に立ち続けていた。

「え? ちょ、ちょっと、どうなってるのよ? くーちゃーん!?」

慌てて後を追おうとするも、もはや古菲の姿は見えなくなっていた。



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